文化財保存センター
当センターでは漁業・農業等の産業を中心とした展示をしており、町の貴重な歴史を学ぶことができます。
※当施設の見学に関しては、事前連絡が必要です。詳しくは乙部町公民館(0139-62-3311)まで
元和で作られた絹糸
現元和地区での養蚕で産された絹糸。
作られたのは戦前と考えられる。
日本は、開国・明治期に絹糸を主要輸出産業となったが、その背景には開国前後頃に欧米で疫病により家蚕(かさん)が壊滅したのも要因の一つとしてある。(当時欧米では、大砲の火薬の袋として最良とされていた絹ではなくリネン(亜麻織物)で代用して事も傍証となる)
そのため、開国明治以降は殖産興業として養蚕(国宝:富岡製糸工場や女工哀史などが有名)を広範囲に奨励し、乙部町域でも養蚕の記録がいくつか見られる。しかし太平洋戦争を経て、人工繊維(合成繊維)の高度普及に伴ない、絹糸を産する養蚕は乙部だけではなく全国的に衰退していった。
なお、伝聞であるが高度成長期以後とそれより前では、後者の方が絹織物としての蝕感がよかったとの事。原因は化学肥料が桑にも用いられるようになったためである。
クジラ頭骨
ヒゲクジラ類の頭骨で、乙部漁港付近を埋めたてる際に掘り出された。
クジラ食は縄文時代からも行なわれているが、基本的に沿岸に寄ったいわゆる「寄せクジラ」を摂食していた。
南氷洋までのクジラ漁は昭和になってから本格化したが、乙部のように沿岸部では特に戦後小規模なクジラ漁が盛んであった。本頭骨はその頃のものである。
ちなみにクジラはヒゲクジラと歯クジラに分けられ、前者はプランクトン食、後者はイカなど肉食である。歯クジラはさらにイルカやシャチなども含むが、その違いは成体の平均身長7m以上が歯クジラ、7m未満がイルカやシャチなどに分けられる。
大鋸(おが)類各種と目立て具
鋸でも大型で林業や製材に用いる物を「大鋸(おが)」と呼ぶ。チェーンソーがまだ普及していなかった高度成長期前は、伐採時に大鋸と鉄製の楔を用いて行っていた。鋸の刃を研ぐ「目立て」をする際の目立て具はネジ類ではなく楔で挟み込むのが日本の特徴である。
大鋸も窓のように隙間がある物は「窓鋸」とも称し、コレは伐採など切断時に木粉が詰まらないように工夫されたもので北海道発祥。
ちなみに日本の鋸は引いて切るが、他国では押して切る物が多い。コレは座業が多かった日本独特の作業状況が関係している。
画像スライド集
旭岱三鹿獅子舞頭など
三鹿獅子舞は旧南部藩(青森八戸・岩手付近)から現福島県付近まで分布しており、豊浜三鹿獅子舞は安永年間(1772~1781)に開始されたと伝承されているので、蝦夷を領地にしていた松前家の参勤交代ルート上のため伝わってきたと考えられるが、もしくは松前領でも日本海側に偏在しているため、太田権現を最北の信仰地とする修験者による伝播の可能性も考えられる。
デンプンすりおろし器
生のジャガイモを手回しですりおろして製造する。
日本では古くからワラビやクズから採取したデンプンを使用していたが、幕末以降に国内で本格化したジャガイモ栽培によりデンプン採取が盛んになった。デンプンは米の代用食としての他、ノリなど工業製品も多用されるようになり、明治期には自家製造が多く行われ戦後本格的な工業化が進められ自家製造は廃れた。
大八車
古くから日本にある伝統的な人力荷車
車軸を有し左右の車輪が連結されているので独立して動かず車体および荷台高があるため重心が高い。空気入りタイヤではなく鉄箍を嵌めた木製車輪ゆえ振動に弱く悪路が得意ではない。などの欠点不便があるので、サイドカーの構造を参考にして大正10年(1921)頃に発明されたリヤカーにとってかわられた。
車箪笥
箪笥に車輪を付けて移動を容易にした物。
しかしその移動しやすさが災いし、明暦3年(1657)の江戸大火(振袖火事)で町民がたちが大事な家財を入れた車箪笥を持ち出して避難しようとして大混雑大渋滞を招き、多くの死者を出す要因の一つとなった。
そのため江戸幕府は、職人の集中していた三都(江戸・京都・大阪)での製造を禁止した。そのためもあってか現存は通常の箪笥に比べて少ない。
ヨイトマケ
その際の指揮者の吊り上げる際の掛け声が「よいと巻け」で、それが転じて作業自体、作業に使う大重量具、さらには従事する作業員自体をも「ヨイトマケ」と呼ぶようになった。
重労働だが単純作業のためか従事者の待遇はあまりよくなかったらしく、また近年でも「ヨイトマケ」の言葉だけは美輪明宏氏の「ヨイトマケの唄」で知っている事もある。
なお、苫小牧の銘菓「よいとまけ」は、同じ名前だが木材伐採製材が盛んだった際の掛け声から名付けられており、地面固め作業の「ヨイトマケ」からではない。
横臼・横杵と竪臼・竪杵
餅搗きに用いられるおなじみの形状のを「横臼・横杵」、展示している胴体がくびれた臼を「竪臼・竪杵」と区別する。
竪臼・竪杵は主として脱穀・製粉に使われる物で、アジアだけではなくアフリカなど世界各地で用いられている臼と杵である。弥生時代に日本へ稲作と共に臼と杵が入って来た際もこの竪臼と竪杵であり銅鐸へ浮き彫りにされている。また、月のウサギが使っているのもこの竪杵と竪臼である。日本では業者による脱穀・製粉が進んだため廃れていった。
横臼・横杵はなじみ深い形状だが餅搗きに特化した物で、日本以外では中国南部揚子江沿岸(日本への稲作伝播ルートの一つとして考えられている)の一部程度でしか用いられていないのが特徴である。日本で最古の横杵は室町時代前半(14世紀)が確認されているが、どのようにして発生したかなど、まだわからない部分が多い。
卓袱台(ちゃぶだい)
まず日本での部屋環境は、布団など畳んだりして不使用時には片づけて空間を作る傾向が顕著であった。食事も同様で箱型のお膳を用い食器は使い終わったらそれに格納し、食器塁は通常個人用で共用は少なかった。
開国明治維新を経て洋風化が進んでいく過程で共用の卓(テーブル)の使用も意識に馴染んでいく。それに伴い農漁村では共用の食器使用概念が都市部よりも従来からあったため、土間に腰かけて皆で食べる事がしやすい卓袱台が普及していく。このように基本的な共用座卓の概念浸透は開国明治維新以降である。卓袱台は折り畳み脚もあるが、このように固定脚もあり、どちらも不使用時には壁に立てかけて片づけておけるのが特徴である。また、丸形の卓袱台は方形よりも使用人数の融通がきく利点があった。
卓袱台は高度成長期以降に生活習慣特に椅子とテーブルの普及に伴って使用されなくなっていった。
北前船の碇
北前船交易の最盛期は幕藩体制が無くなり各藩での税を取られなくなった明治になってからだが、鉄道による輸送の発達や郵便制度による(価格など)情報伝達の高速化などで大きな利益が見込めなくなり衰退していき、日露戦争(1904~05)でのロシア艦隊による通商破壊の恐れでとどめをさされた。
この碇は大型のため「鍛造」である。鋳物鉄は鍛造よりも衝撃に弱く大型を製するのが江戸時代には難しかった。大型の鋳鉄製品が作られるようになるのは世界レベルでは産業革命にて高炉が発明され良質の鉄が大量に製造されるようになってからであり、日本でも幕末に伊豆や佐賀などで反射式高炉の建造が行なわれている。イカ針
乙部でのイカ漁は鯡(ニシン)漁が衰退していった幕末以降に本格化した。最新の研究では、イカは夜間照明をともすと暗闇である船の下へ潜り込もうと近寄ってくる傾向があり、その習性を利用して夜間に照明をつけてイカ漁をおこなっていた。
イカ針は食らいつかせるのではなく体部へひっかけるもので、当初は木製、それから鉛などの重りへ糸を巻きつけた物を経て、高度成長期頃以降は蛍光系ビニール素材を用いた登録商標「おっぱい針」が用いられ、現在では蛍光プラスチック製が使用されている。
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