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観光・特産品

乙部の歴史・文化

郷土文化を伝える施設や、義経伝説を初めとする観光地に伝わっている物語などを紹介します。 

郷土資料館

縄文式時代の復元 竪穴式住居

縄文式時代の復元 竪穴式住居

 乙部公民館には、町内から出土した縄文時代の土器や江戸時代からの産業の歴史・変化の過程を知ることができる各種の資料が展示された郷土資料室があります。今では目にすることがなくなった漁具や農具のほか、全盛を極めたニシン漁の様子などを垣間見ることができます。


アクセス:乙部町役場からせたな方面へ徒歩で約10分
(乙部町公民館内)

蛸島(たこじま)の家

郷土文化保存伝習施設 蛸島の家

郷土文化保存伝習施設 蛸島の家

 蛸島の家は通称で、郷土文化保存伝習施設といいます。道の駅の斜め向かいにある郷土文化保存伝習施設は、ニシンの千石場所として栄えていた時代に、ヤン衆(漁夫)たちが宿泊した家や商家をそのまま保存しているものです。夏季の海水浴シーズン(7月中旬~8月中旬)には、無料休憩所として開放されています。

アクセス:乙部町役場からせたな方面へ車で約10分

箱館戦争官軍上陸の地跡

官軍上陸の地跡

官軍上陸の地跡

 新しい北海道の夜明けとなった箱館戦争。ここ乙部にも箱館戦争の足跡があります。明治2年(1869年)4月9日未明、乙部の海上に官軍の大艦隊が押し寄せ、津花(元町)、相泊(館浦)に上陸しました。乙部に上陸した官軍は、現在の宮の森公園の一部として整備されている瀬茂内の丘周辺などで旧幕府軍と交戦し、五稜郭を目指したのです。今も官軍が上陸した場所にはその跡地として碑が建っています。

アクセス:乙部町役場から徒歩で約3分(乙部漁港内)

貝子沢化石公園

貝子沢化石公園

貝子沢化石公園

 100万年以上昔の化石を含んだ地層がそのまま保存されているのが、貝子沢化石公園です。この公園内からはエゾタマキガイ、ビノスガイなど30種を超える貝化石が産出され、北海道で初めて温暖系絶滅種3種も発見されました。公園内は散策路のほか、標高40メートルの高さから化石を観察できる展望デッキも整備されています。生きた教材として子供たちにもぜひ訪ねてほしい名所です。

アクセス:乙部町役場から道道460号線・町道館浦姫川線を経由し車で約5分
※現在、展望デッキは利用不可となっています。

三十三観音札所巡り

 松前藩時代に松前から熊石までの寺や庵に三十三の観音様が置かれ、それらを参拝して歩くという信仰がありました。乙部にも25番から29番の5箇所の札所があり、多くの人が参拝に訪れたといいいます。今も札所を表す標柱は残っていますが、2ヶ所は寺院の中に保管されていて、屋外で目にすることが出来るのは3ヶ所だけになっています。保管されている2ヶ所の標柱も、法然寺にお願いすると見ることができます。

アクセス:
・25番 長徳寺前(元町地区) 乙部町役場から江差方面へ徒歩で約3分
・26・27番 法然寺内(元町地区) 乙部町役場から江差方面へ徒歩で約5分
・28番 龍宝寺前(栄浜地区) 乙部町役場からせたな方面へ車で約7分
・29番 本誓寺前(豊浜地区) 乙部町役場からせたな方面へ車で約15分

義経伝説

 その昔、九郎半官義経が兄頼朝の追討を逃れ、乙部に蝦夷地で最初の足跡を残しました。乙部には地名としてその逸話が刻まれています。乙部岳は義経の別名九郎半官から九郎岳、静御前を思いつつも越えなければならなかった峠は姫待峠と呼ばれています。また義経を追って乙部にたどり着いた静御前ですが、義経はすでに乙部岳を越え、2人は会うことが出来ませんでした。悲嘆にくれた静御前は、川に移った自分の姿を見て、もうこの世に生きながらえる望みも力も失ったと、その川に身を投げてしまいました。そしてこの川を姫川と呼ぶようになったのです。

縁桂の伝説

 明治の末期、荒川万太郎という豪傑な漁師がいました。あるとき親方の船を造ることになり、巨大なカツラの木を切り倒すことになったのですが、何度も斧に力を込めて切ろうとしても力が入らず、誰もその木を切ることが出来ません。そこで万太郎が呼び出されたのですが、万太郎までもがこのカツラの木の前では力が抜けてしまい、結局切り倒すことが出来なかったのです。このことから人々は、「万太郎さえ斧を入れられなかったのだから、神の宿る木に違いない。」と巨木を大切に奉ったといいます。

ダッタン漂流記

 19世紀になろうとする頃、現在の元和地区に3人の漁師が住んでいました。ある日、船でこんぶ漁に出かけた 3人は嵐に遭い、ダッタン国(現在の中国吉林省)に漂着してしまいました。彼らはその国の役人の指示に従って国内を移動し、当時の宮殿「紫禁城」(しきんじょう)でやっと日本に帰国する許可をもらいました。当時は鎖国していた日本のこと、船で長崎についた3人は長崎奉行で厳しい取調べを受けました。大変な思いをした3人は、北前船に乗って約2年半後に乙部に帰ることができたのです。

八助物語

 鮪の岬の北側の漁村が蚊柱村(かばしらむら)と呼ばれていた頃、村に八助(はちすけ)という物知りじいさんが住んでいました。じいさんは若い漁師たちが漁に出ると必ず岬でちょうちんを持ち、灯台の役目をしていました。ある吹雪の夜、漁に出た漁師たちのために、いつものようにじいさんは岬に出かけました。翌朝、漁を無事に終えて戻ってきた漁師たちが鮪の岬でちょうちんを握り締めたまま寒さで死んでいるじいさんを発見。じいさんの優しさを忘れないよう、今も語り継がれている伝説です。

館の岬の悲恋物語

 江戸の末期ごろ、館の岬の近くに与作と呼ばれる漁師が住んでいました。与作は親方のもとに奉公する、お岩という美しくて心やさしい女性と知り合い、恋が芽生えました。しかし親方の息子がお岩との結婚を望み、与作につらくあたるようになり、お岩も心を痛めるようになったのです。
 とうとう2人はこの世でかなわぬ恋だと、冥土で結ばれることを願って館の岬から身を投げてしまいました。
 館の岬に立つ悲恋塚は2人の悲しい恋をしのぶために建てられたのです。